麗しき宴

美も知も酔も、一生

宮崎駿「風立ちぬ」

宮崎駿監督の「風立ちぬ」を見終わったあとの違和感。。でも数日後の宮崎駿監督引退ニュースを聞いて合点がいった。 見終わった直後は、こりゃ宮崎監督の自己満映画だ、と直感的な感想を抱いただけだった。何故このような世界観を繰り広げたのか、開き直りなのか、と、それとも意味はないのか? 疑問を抱いて色々映画評をネットで見ていたら、やはり開き直りと思えた。

「綺麗な飛行機をつくりたいんだ」という強い己の美学を貫き戦争の混乱期を生き抜いた、主人公。それが国家に利用されようがされまいが、あまり関心はなく、ただ自分の世界観の中だけで生きている。 宮崎駿もまた、世界から「素晴らしいメッセージ性のある映画を!」と期待され続けてきた。 けれど彼はもっとシンプルなところの感覚で、面白い映画がつくりたかっただけなのではないか。 それが環境破壊がテーマであったり、友情がテーマだったり、色々あっただろうけど それはメッセージとしてより、単に「面白いから」つくったというだけなのかもしれない。 だから最後の長編映画で、「俺はこんな奴なんですよ。」と自己投影したように思える。

仲代達也が主役の先月公開映画「人間の悲劇」は未見であるが、仲代達也はこの映画に関するインタビューで「80歳を過ぎてようやく自己投影できるようになった。もう自己投影する役しかやりたくない(笑)」のようなことをおっしゃっていた。 様々な役をこなされて、監督や観客の期待する要求に応え続けてきた仲代達也は、勿論ご自身のものではあるけれど、同時につくられた仲代達也、というものもある。つくられた仲代達也として、期待される仲代達也をとして演じてきた、そんな一面ももつような。
しかし、長年期待され続け、その期待の要求にこたえようとしてくると、人間って、宮崎監督や仲代さんのような心境になるのも納得する。 「俺ってこんな人間だよ。」そう晒すことで、肩の荷をおろしている。

引退の境地にいっていて「俺はこういう男だ。何か文句あるか」と、宮崎駿ははじめて自分を投影させてこんな映画が出来上がったのではないかな。

職人でいたい、と監督が引退会見で言っていたのが印象に残る。 普通のおじさんに戻ることを切望してのことかもしれないけど、 感覚はなかなかそうは許してくれない気もします。