麗しき宴

美も知も酔も、一生

十八代目中村勘三郎 一周忌

中村勘三郎さんがお亡くなりになってから早いもので今日で1年。
歌舞伎界だけでなく日本の宝、財産だった勘三郎さん。彼に関わった誰もが悲しみに暮れた。喪失感という言葉では表現できない、大きな大きな大きな穴が開いてしまった現実を、私でさえ受け入れられなかったのだから、身近な方々の深い悲しみを想像すると果てしない思いになる。

中村勘三郎さんの奥様が書き下ろされた本が出版された。一昨日、本屋でたまたまみて立ち読みだけ。。のつもりが、勘三郎さんの病気の経緯などが詳しく書かれていて、全部読みたくなり買ってその晩一気読みした。

突発性難聴や食道がんの手術から合併症をおこしたことは知っていたけれど詳しいことはあまり知らなかったので読んで色々びっくり。。。

うつ病治療していたことや食道がん を手術したG研病院から2回転院したことなど、そして最後は脳内出血をおこして、その数日後に亡くなられたこと。。

読んでいて色々なことを考えた。
報道を聞いた時は治療の仕方は間違っていて死ななくて良かったのではないか、という思いがあった。食道がんの手術が長時間に終わったこと、癌は100%切除に成功したもののそのあと誤嚥してしまい肺に胆汁が蔓延し肺炎をおこしARDS(急性呼吸窮迫症候群)となってしまったことを考えるとそもそもがんの切除手術を受けなければこんな急なかたちで死なずに済んだ、とも思えた。

でも、きっと「早く治したい」「舞台に早く復帰したい」という焦りからの手術だったろうし、違う方法を考える気持ち的余裕はなかった筈だと思うと手術しない選択肢はなかったのだろうと思う。

しかしがんの手術を受けた病院はがんに対してはエキスパートであっても、その先の合併症は対応できなかった。だから2度の転院を余儀なくされたわけだけど、もし合併症が起きた時にすぐに対応できる病院だったら・・という箇所が一番残念なことに思われた。

危険な合併症が起こる可能性は偶然とか色々なことがあってのことだけど、しかし結果的には運がいいか悪いかという位、いちかばちか、的なものらしい。偶然が重なり運悪く死に至った。。ということなのか。

けれどヘビースモーカーで酒豪、埃の多い舞台での長い生活、休みなく次々と舞台をこなしハイテンションで猛進してきた彼の人生を考えると、体は寿命だったんじゃないかなぁ。。。という思いがよぎる。

勿論絶対絶対生きてほしかった!

でも冷静に俯瞰すると、たくさんの人に愛されたくさんの人に影響を与えた中村屋の人生をその死が凝縮して語っているように思える。

この本は中村屋の奥様である好江さんが闘病生活や病状の経緯を語ることによって、今の医療のあり方に何か、訴えているような内容に感じた。中村勘三郎さんの死が今後、こうした病気になった方やそれを治療する医師たちに一石を投じるような。。そんな心根が見える。中村屋の死は無駄にしたくない、と。

巻末には転院したふたつの病院の担当医の方がインタビューを受け答えている。普通はこういうものを掲載するのは病院が嫌がりそうですが。しかしがんの切除をした病院の主治医にもインタビューをしたらしいがそちらは病院の都合で掲載できなかったとある。

それにしてもお二人の繋がりの深さに驚嘆。結婚32年、出会いから50ん年という年月を重ねているのにその仲の良さってば普通じゃないです。やんちゃ坊主とおてんば娘の恋愛は永遠なのでしょうね。。

中村勘三郎 最期の131日 哲明さんと生きて

中村勘三郎 最期の131日 哲明さんと生きて

 

 

歌舞伎を初めて見たのは平成4年の8月だった。その時出演していたのが(当時)勘九郎さんだった。現・三津五郎さんの八十助さん、橋之助さん、福助さん。。孝太郎さんや染五郎さん。みんな30代、20代。若い若いメンバーでの花形納涼歌舞伎。

その時は全く知らないことだったが、当時歌舞伎人気はそれほどなく、今のように歌舞伎が毎月歌舞伎座で行われていたわけじゃないらしい。8月に関しては三波春雄が20年も毎年公演をしていたのだとか。

そんな中、若手はなかなか役がつかず、勉強のためにも是非8月の公演を私たちにやらせてほしいと熱意でもって松竹に直談判し花形納涼歌舞伎をスタートさせたのは、当時30代半ばの勘九郎さんだった。平成2年からはじめたという。

なので私が観たのはまだスタートから3年目の夏。演目は「義経千本桜」の通し。お客の入りはそれほどじゃなかったことを覚えている。でも舞台は熱かった。なかでも大和屋と中村屋の熱演っぷりには瞬きをするのを忘れるくらいのめり込んで見入った。凄い熱気に一気に歌舞伎ファンになり、その月は10回は歌舞伎座へ足を運んだと思う。

義経千本桜 - Wikipedia

今でもその時のチケットやチラシ、筋書き(パンフレット)は全部保存してある。

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思い返してみるとあのタイミングであの日あの芝居を観ていなければ、私はここまで歌舞伎好きにならなかったかもしれない、と思える。

大和屋の狐忠信のケレン・せりふ回しに驚き、舞踊・吉野山での美しい踊りに何度も鳥肌が立った。中村屋のいがみの権太の義理と人情味溢れる芝居に惹かれ、何度も胸を熱くした。橋之助さんの碇知盛の気迫、福助さんの可憐さ、染五郎さんの立ち回りの麗しさ、そして若手の芝居をがっちりと受け止め脇をしめた先代の又五郎さん、澤村藤十郎さん。。本当にみなさん素晴らしかった。

あれから20年以上がたち、私も数えきれないほど歌舞伎の舞台をみてきたが、あの月の歌舞伎を超えるほど感動したものは・・・ない、とさえ思える。

情熱の中村屋が次々と新しいことにトライし、新しい歌舞伎ファンを増やし、歌舞伎座に来る客層が変わっていったのもずっと見てきた。以前のように簡単にいい席は取れなくなりチケットは取り辛くなった。歌舞伎が人気になるのは嬉しい。中村屋歌舞伎に与えた貢献度をずっと横で実感しながら、時に憂いもあった。妙なところで笑う客層ができはじめ、不快な気分で歌舞伎をみることもあった。

新しく歌舞伎ファンになった人たちを真の歌舞伎ファンになってもらうためには新しいことばかりでなく、きちんと古典歌舞伎をやってもらいたい。古典があってこそ、新しいものがある。古を稽えるからこそ、継承できるのだ。継承なくして歌舞伎はありえなかったのだから。

だからこそ、まだまだ生きていて欲しかった。生きて若い歌舞伎ファンを育てる義務が中村屋にはあった筈だ。。彼もそう思っていたにちがいない。。

子供の頃やりたいと思っていた日本舞踊を習いたいという思いが再燃し、本格的にはじめたのもこの日をきっかけに歌舞伎ファンになったからであり、そのあとの私の人生の方向を大きく変えていったワケなので、私にとって平成4年のあの夏は忘れられない日なのである。

今年4月、歌舞伎座杮落とし公演の第一部を観た。中村屋が演じ踊る筈だった「お祭り」を大和屋が踊り、そして勘三郎さんの孫の七緒八くんが初お披露目で登場した。涙なくして見れず胸が何度も熱くなった。魂は既に受け継がれていると思った。

昔の写真、探したいものがあって見てたら、勘三郎さんとのツーショット写真があってびっくり。20年前歌舞伎座で行われた俳優祭で撮影したものと思われる。宝物だなぁ。。

http://instagram.com/p/huQHGisdc0/